歴史



沖縄空手の源流「手(てぃ)」

「空手」は琉球王国時代の氏族のたしなみの1つだった武術であり、もともとは「手(てぃ)」と呼ばれた護身術から発達し、今日に発展したとされています。 沖縄発祥の武道である空手は発展した地域によって「首里手(しゅりて)」「泊手(とまりて)」「那覇手(なはて)」、そして中国福建省にルーツをおく「上地流」を源流にそれぞれの系統で分かれています。

那覇手

 古くは浮島と呼ばれた那覇は、15世紀半ば尚金福王時代に長虹堤(ちょうこうてい)が築かれて、首里や真和志とつながれた。百年後の16世紀半ば頃には屋良座森城(やらざもりぐすく)と三重城(みーぐすく)の突堤が築かれ、交通や国防上、また港湾として整備され、中国や南蛮、日本本土との貿易港として賑わっていた。明治12年(1879年)4月に廃藩となり、同年6月那覇市役所が設置され、翌年6月に那覇は「西」「東」「泉崎」「若狭」「久茂地」「久米」「泊」の7つの村となった。とくに久米村は、*閩人三十六姓の居住地であり、彼ら琉球に渡来した*閩人の中には、中国拳法に長ずる者がいたが、その武術は、久米村の子孫に継承され、この中国拳法が後に、那覇手に多大な影響を与えたといわれる。*びんじん:中国から渡来した中国人

 那覇士族のなかからは、当時多くの武術家が輩出しているが、那覇手といわれるようになったのは、東恩納寛量(1853~1915年)の頃からで「那覇手中興の祖」と呼ばれる。東恩納は慎性家譜支流、畑の東恩納の系統で、東恩納家の十世にあたり父寛用と母真蒲戸の七男一女の四男として、嘉永6年(1853年)3月10日、那覇の西村で出生。童名を真牛、唐名を慎善煕と称した。東恩納家の兄弟のうち、長男寛扶、次男寛昌、三男寛政、七男寛長は若くしてこの世を去った。生家は、山原船を所有し、本島北部や周辺の離島を往復して薪を仕入れ那覇で販売する薪商売を営んでいた。東恩納は幼少の頃から弟の五男寛修、六男寛栄と共に父親の手助けをした。

 その頃、日本国では徳川幕府が倒れ、翌明治元年(1868年)8月27日には、明治天皇が即位し、9月8日には年号を明治と改め、明治2年(1869年)に版籍奉還が行われ、次いで明治4年(1871年)には廃藩置県を断行した。その後、明治政府は、琉球藩に対し、これまで続けてきた中国との関係を断つようにと勧告してきた。その為、琉球では「親日派」と「親中派」に分かれ対立し、混乱を極めた。東恩納は、このような動乱期に少年時代を過ごした。そして17歳の頃、久米村のマヤー・アラカチこと新垣世璋(1840~1920年)に師事し武術を学んだ。新垣は若狭町の人であるが、子供の頃から久米村で勉強したので、親友も久米村に多かった。武術は鄭氏屋部親雲上(元の外間)に就いて学んだという新垣は、慶応8年(1867年)3月24日、御冠船の御祝いのとき首里崎山の御茶屋御殿で、その最も得意とする「十三歩」を演武し、尚泰候の上覧に供した栄誉ある武士である。東恩納は新垣から厳しく鍛えられ、当時若くして、那覇四町において東恩納の名を知らない者はいない程の武術家に成長した。彼は生まれつき優れた武才の持ち主だったと云われる。しかし東恩納はそれだけでは飽き足らず、中国で武術を修行してきた先輩達から、中国武術の素晴らしい話を聞く毎に、若いうちに一度は中国に渡り、彼地の武術を学びたいと心に決め、ひそかに準備を進めた。

明治8年頃(1875年)東恩納22歳のとき、かねて親交のあった義村朝明(義村御殿)から琉球館あての紹介状を貰い、密航船で福州に渡った。その頃、ルールーコー(謝崇祥、1852~1930年)は、琉球館近くの義村海坊前水部一帯で、名声の高い武術家であった。歳が若かったこともあり、弟子は彼のことを「如如哥(ルールーコー)」と呼んでいた。哥とは、兄貴のことである。東恩納もルールーコーに弟子入りし、昼はルールーコーの父謝尊志(1822~1899年、羅漢拳法に長ずる)から手工業(竹細工)を習い、晩は屋敷内の空き地で、ルールーコーから拳術を学んで修行に励んだ。ルール―コーは「脚真快(カーチンカー)ルールー」とも呼ばれ足技が得意で、その右に出る者はなかったという。東恩納は、師から鳴鶴拳の基本を学び、3年後の明治10年(1877年)、漂流難民船で那覇に帰ってきた。このことについて、中国第一歴史襠案館編、清代中琉関係襠案選編によると、清光緒3年(1877年)10月21日に、皇太后、皇帝への報告書の中に「9月18日に、琉球館を発って乗船した、大城等の10人(漂流難民)及び前回福州に留まっていた慎寛量、加納城、山内、上里等も乗船し、一緒に帰国した。なお、各人に1ヶ月分の食糧、その他を追加支給し、難民の持ち物は金銭に換え支給した。一件落着したため、それぞれ支給明細を作り、署藩司の李明墀がこれをチェックするとともに、この件についての上奏を要請する文書を送ってきました。つきましては、謹んでご報告申し上げます。」以下省略。光緒三年(1877年10月21日)

これによって東恩納は明治10年(1877年)に帰国したことが記録の上からもはっきりわかる。東恩納の孫にあたる譜久村三郎氏は「私の祖父は、琉球処分に反対し、琉球王国の存続を清国に請願するため3人の方と一緒に福州に行ったそうである。彼地に3年いて、竹細工の仕事をしながら空手を習ってきたそうです。このことを義理の祖父から聞いたことがあります。」と証言しており中国側の記録と一致する。

東恩納は帰国早々から家業に従事し、山原船で離島を往復した。明治15年(1882年)5月15日には、長男寛仁が生まれ、明治22年(1889年)8月10日には伊平屋島の女との間に松助が生まれた。彼が36歳の時である。東恩納は、帰国後も福州での拳法の修行については、一切口にしなかったが、福州を往来する商人たちの間から「唐手東恩納」の名が広まり、「ぜひご指導を仰ぎたい」と切望する若者が多くなったため、子弟を指導することになった。彼が福州に行くとき紹介状を頂いた義村御殿(朝明)の二男朝義(1866~1945年)も東恩納から明治22年(1889年)頃指導を受け「サンチン」を基本に「ペチューリン」を修得した。この頃から「唐手」の指導を受ける幾多の若者が集まってきた。 明治35、6年(1902、3年)頃には、許田重発(1887~1968年)や宮城長順(1888~1953年)等が、東恩納の福州で修得した「空手」の指導を受けるようになって、たちまち世間の注目するところとなり、その後、東恩納の空手は那覇手と呼称され黄金時代を築いた。

宮城長順は、明治21年(1888年)4月25日に、那覇市東町で出生、14歳の時、東恩納寛量に師事した。文武両道を極めた武人である。那覇尋常小学校を皮切りに、警察、師範学校、那覇商業、関西大学、立命館大学、同志社大学などで空手を指導、昭和14年(1939年)4月、ハワイ「洋国時報社」から招聘を受け、ハワイ各地で空手の指導にあたり、国内外への空手の普及発展を図る。宮城は、新しく体育次元に立脚した合理的な修練体系を確立した。戦後、警察学校で警察官の指導に専念する傍ら、那覇市壺屋で門弟の指導育成にあたったが、昭和28年(1853年)、65歳の生涯を終えた。許田重発は、長年教職に身を置き、傍ら空手の指導に専念し東恩納流と命名した。昭和43年(1968年)8月に亡くなるまで、大分県別府市において門弟の指導にあたられた。東恩納の指導は厳格だったが、直系である宮城長順等に引き継がれて、那覇手から剛柔流と命名された。宮城の弟子には、比嘉世幸(1898年~1966年)と新里仁安(1901年~1945年)等が高弟として知られている。空手道の研究の指導一筋に打ち込んだ東恩納も、晩年は病のため大正4年(1915年)数え63歳で生涯を終えた。

首里手

首里は、琉球王国の首都として、15世紀ごろから1879年(明治12年)の廃藩置県まで、琉球の政治文化の中心地として栄えた。

琉球王府に仕えた首里士族は、文武両道に優れた者が多く、武術の面においても、多くの武人を輩出している。なかでも松村宗棍(1809~1899年、他に生年は1800年説もある)は、武士松村と言われた傑出した武人である。松村は首里山川村に出生、唐名を武成達、号を雲勇または武長とも称した。松村は、幼少の頃から、唐手佐久川こと照屋筑登之親雲上寛賀に武術を師事し、剣術の指南を薩摩の剣客伊集院矢七郎師より受け、「示源流」を修得し、その奥義を極めた。松村は武をよくしたのみならず当時の秀才で書家としても一家をなし、文人画をよくした。20代の頃より、尚灝王の指南役をつとめ、尚育王、尚泰王にも仕えた。中国福州と薩摩藩へ琉球王の使者として派遣された有名な武人である。首里士族の武術は、佐久川と松村によって形成され発展していった。松村の高弟には、安里安恒(1828~1914年、首里桃原の出身、高弟に富名腰義珍がいる)糸洲安恒(1831~1915)などがいる。

糸洲安恒は、天保2年(1831年)首里山川に生まれ、幼少の頃から武を好み、武術を松村宗棍に学び、那覇の崎山、長浜、泊の松茂良、首里、牧志、佐久間、伊志嶺、安里等と交わり、斯道の研究に勉め、その奥義を極めた。温厚篤実にして心事また高潔、真に古武士の風格があった。廃藩置県後、斯道衰えると、糸洲は大いに嘆き、青年達を集めて教えるのが無上の楽しみとし、殆ど老いを感じさせない人であった。明治38年(1905年)、師範学校及び中学に武道として空手を採用すると、糸洲は嘱託として教授の任を受け、以後10有余年老体よく幾百の健児を訓育した。糸洲の少年時代は、専ら師松村に就いて、武道を教わったが、稍長ずると、それだけでは満足出来ずに、那覇の長浜師に就いても教えを受け、その他当時に於ける有数の大家は、大方歴訪し、質疑をしたり、指導を受けたりした。

空手を大別すると昭霊流と昭林流に分けられる。昭霊流の開祖は大兵肥満の人だったそうで、その人の性格から自然に割出された一種の特色がある。昭林流もこれと同じく、その創始者が痩形であったためその人に適する武道が生まれた。又、拳法に躰用という語があるが躰とは武の力のことであり、用とは武の技のことである。躰とは主として身体を堅固にして如何なる強敵に遭っても挫けないように鍛錬しておくと伝うのである。即ち昭霊流のその方の特色を持つ糸洲のような人もその主義であった。糸洲安恒は昭霊流の代表者で、昭林流を代表するのが安里安恒である。糸洲が那覇六分、首里四分という技風は、那覇が昭霊流であったからである。たとえ過って敵の拳峰に触れても、(毫)(わずか)も痛み損することがないようにする。即ち防禦力の強大と忍耐力を強くすることである。これと反対の主義に立つ者は安里などが専ら主張する技である。安里の言うのには、敵の拳固は刀剣と同じものであるから、少しでもこれを体に受けてはならない。常にこれを外すように努めると共に敵に向かって素早く突入し、進撃してその戦闘力を失わせなければならないと、安里は頻に用を重んずべきだと説いた。昭林流の則る所はこの点にある。しかしこれは、その特色の大体についてのことであって、躰用は決してその一を廃止してはいけないのである。

糸洲の得意の手は、ナイファンチである。空手の基本は、ナイファンチであるといってその弟子に教えるにも、常にナイファンチを深く研究すべきだと説いた。名人大家という者には、必ず一つは得意の術があるもので、その術一つは何人が来ても一言も挟むことが出来なけれは、一指も染めさせないという深い自信と鬼神も驚かすような妙境を開いているが、当時ナイファンチにかけては、勇士多しと雖(いえど)も糸洲に比肩(ひけん)するものが無いという有様であった。糸洲が苦心した所は、ナイファンチの蟹歩きであった。この蟹歩きが完全に出来る者は、及公(おれ)ひとりだと言って威張ったものである。糸洲の蟹歩きは、独特の妙味があった。その鉄拳を蟹の鋏のように曲げて、歩々力足を踏んで、横行する時の状態は、寔(まこと)に天下無類の奇観状観であった。また糸洲は、書道に於いては、尤(もっと)も苦心惨憺(さんたん)し、武道に劣らぬ研究をした甲斐あって、遂に当時の士人の面目光栄とした三大科(こう)の中の御祐筆の科に合格して、首尾よくその役を勤めたのである。糸洲の筆力の遒勁(しゅうけい)なる所は、空手の堅剛と相一し、優に御祐筆役人として同僚仲間に躰を抜いた。また唐手が明治34年(1901年)4月、はじめて尋常小学校で体操科の中に採用されたとき、糸洲はその指導を担当した。明治38年(1905年)4月から県立第一中学校及び師範学校の唐手教師の嘱託となり、その普及に努めた。この期間に平安初段から五段までの型を創作した。自宅においてもひたすら空手一筋に打ち込み、門弟の指導に専念した。そして沖縄空手界に多くの逸材を輩出したが、その高弟として、屋部憲通、富名腰義珍、花城長茂、喜屋武朝徳、知花朝信、徳田安文、大城朝恕、摩文仁賢和、城間真繁などがいて、沖縄空手道の発展に大きな功績を残した。

糸洲は明治41年(1908年)10月、77歳のとき「空手心得十ヶ條」を自ら筆をとられて書き記し、県当局へ意見書を提出しているが、唐手道に対する情熱の深さがうかがえる。糸洲はこのように、幾多の功績を残したが、1915年(大正4年)3月、85歳の天寿を全うした。

首里手は、松村宗棍から糸洲安恒へ、そして喜屋武朝徳や知花朝信等へと継承された。喜屋武朝徳は1870年12月首里儀保村で出生。父朝扶は尚泰候の家扶職(書記官)を務め、文武両道を究めた人格者として知られる。朝徳は少年時代に父親と一緒に上京し、16歳まで二松学舎院で漢学を学ぶ。小軀で身体も弱かったので、幼少の頃から父親に武術(空手等)の指導を受ける。成人を迎えた頃東京より帰郷し、当時空手界で有名な首里手の松村宗棍、糸洲安恒、泊手の親泊興寛等に師事し空手道を修練する。小軀のためもあり、人一倍苦行を重ねた。30歳の頃には「喜屋武ミー小」の異名をとり、首里や那覇で武名が伝わるようになった。後に比謝橋近くに住居を構え、農林学校生や近隣の青少年に空手道の指導育成にあたり、1945年(昭和20年)9月、76歳で生涯を閉じた。

知花朝信(1865~1969)は、1885年(明治18年)6月5日、首里鳥堀村で出生。15歳のとき、師糸洲安恒に指導を受ける。知花は師糸洲安恒が85歳で亡くなるまでの13年間を一心に修行に励んだ。その後、首里鳥堀町や那覇市久茂地等に空手道場を開設した。首里手系統には、他の大家が伝えた流派もあるので、これと区別するため、知花は1933年(昭和8年)に、伝統的空手道を小林流と命名し開祖となった。 1948年(昭和23年)には、沖縄空手道小林流協会を結成し、その初代会長となる。1956年(昭和31年)5月に沖縄空手道連盟が結成されるやその初代会長に就任。1968年(昭和43年)4月勲四等瑞宝章受賞。知花は戦後の空手道の普及発展に努めた功労者であり、また沖縄空手道の重鎮として知られていたが、1969年(昭和44年)2月、85歳の生涯を閉じた。

泊手

泊港は、その昔、首里王府の貿易港として栄えた。特に中山王府樹立後は、泊村が海外からの玄関口として諸外国との交流がさかんになり、泊村の人達の中から、漢学、芸能、音楽、武術等、種々の分野で活躍する大家が誕生した。

泊港に上陸した外国人は、泊の聖現寺(俗称天久の寺)の境内に、種々の物資を陸揚げし、この寺が、彼らの琉球滞在中の活動の拠点となったと言われている。中には、中国、朝鮮等の交易船が漂着することもあった。そのために、琉球王府の命によって、聖現寺の周辺に、これらの漂着者を収容する客舎が設けられ、そこで漂着者を歓待していた。従って長い年月の間に、泊の人達は、その客舎に出入りし、漂着者の中にいる武人から武術の伝授を受け、首里、那覇とは変わった独特の泊手が誕生したといわれている。

泊手は、照屋規箴(1804~1864年)と宇久嘉隆(1800~1850年)に始まる。この両師に師事し、後に照屋師の後を継いだのが、松茂良興作(1829~1898年)である。松茂良は、泊手を、首里手、那覇手と並び称されるまでに武術を高めた人で、後世、泊手中興の祖といわれた。

松茂良興作は、第一尚氏の流れをくむ、雍氏姓松茂良興典三男四女の中の長男として尚育王代の道光9年(1829年)3月、泊村(戦前、高橋町)で出生。童名を樽金、唐名を雍唯寛という。松茂良は、一生を空手道に捧げ「泊手」を確立し、後進の指導に力を尽くし、幾多の逸材を輩出した。そして後世、泊の武士松茂良と称されたが、1898年11月70歳でその生涯をとじた。

松茂良は、照屋師から泊手の大半の型を修得し、後継者は松茂良だと評されるまでに斯道を究めた。照屋規箴は、熱心に稽古に励む松茂良の根性と非凡なる武才に惚れ込み、これまで庭先でやっていた稽古を止め、人里離れた聖現寺近くにある祖父の墓庭に移し、型と実戦に必要な転身自在の変手技を教授した。この裏庭は、面積がなんと144坪もあり、乾隆39年(1774年)に建造された堂々たる亀甲墓で、今日に至るまで、少しの破損もなく現存している。

照屋師は門弟に対し、常に隠忍自重し、好戦的に、自分から先に手を出してはいけない、所謂「空手に先手なし」ということで、技を超越した精神面に重きを置いた。「生半可な修練は、自滅である」と戒め「仁、義、礼、智、信」の五常をわきまえよと教え諭した。その後、松茂良は泊浜の「カーミヌヤー」という洞窟に住んでいた中国人に教えを受けているが、ただ一筋に空手道の研鑽を重ねたという。

松茂良の時代は、泊村は空手熱の盛んな時で、松茂良は山田義恵(1835~1905年)、親泊興寛(1827~1905年)と共に「泊の三傑」と称された。松茂良は突きの名人で、またその弟子への指導法に妙を得て、常に工夫させるように伝授したという。親泊は、足技の達人で、山田は身体を固くするという特技の持ち主だった。

松茂良の武術は、ハーリ-ヤーの山田義輝(1866~1946年)安富祖の久場興保(久場小サールー・1870~1942年)泊中道の伊波興達(シースータンメー・1873~1928年)等に継承された。伊波興味達の武術は、さらに仲宗根カーカーこと仲宗根正侑(1893~1983年)に継承された。

仲宗根は、若い時から、七分板三枚を重ねて試し割りをしたり、麻縄三本を手に巻いて切ったり、八番線を腹に巻いて切ったりしたが、当時の若者たちの中には、仲宗根のように強くなりたいと憧れ、空手をはじめた人もいたと伝えられる。30代の時に恩師、伊波興達の死去に遭い、その後は、一人で稽古を続けていたが、自分より外に泊手に詳しい人もいないので自分自身の技を磨くため、那覇市松下町、俗称セーヌカンに道場がある、剛柔流の比嘉世幸(1898~1966年)のところで、交換稽古をし、剛柔流を鍛錬しながら、泊手の保存に努めた。仲宗根の時代は世界経済恐慌の波が押し寄せ、空手や三味線を習うことは軽視され、空手等を習う者には嫁のきてもないと言われ、空手の稽古は専ら、ひそかに裏庭で行われた。しかし、当時は生活が苦しく、彼の兄弟子達は、泊手を続けていくことが出来なかったようである。仲宗根は仕事の傍ら県内各地の武道家に会い、空手道の研鑽に努めた。そのため60歳を過ぎるまで、弟子を取ろうとしなかったので、泊手の歴史に空白の期間が生じた。泊手が幻の手と言われたのもこの為であろう。仲宗根は泊手唯一の後継者でありながら、長年弟子を取らず、松茂良派の空手道が後継者もなく滅び去るのは偲びなく、多くの方々からの要望もあって、ようやく弟子を取るようになった。仲宗根が初めて本格的に空手の後継者を育成するために、一番弟子として入門を許可されたのが、渡嘉敷唯賢である。渡嘉敷は厳しく鍛えられ泊手の真髄を余すところなく修得した。仲宗根が戦後、初めて泊手を公開したのは1961年11月26日、那覇劇場で行われた第一回沖縄古武道発表大会であった。その時、仲宗根は大観衆のまえで「泊手の錠の鍵は、私が握っている」と公言し、生半可な空手家に対する一大警告を与えた。

仲宗根は昭和51年、老齢のため「松茂良派正心館」道場の看板を渡嘉敷唯賢に譲っている。

仲宗根正侑は、1893年1月、那覇市泊村で出生し、12歳から90歳までの78年間の生涯を空手道の研究と指導一筋に打ち込んだ。昭和の時代になって、最後の武士と言われたが、1983年4月、90歳の天寿を全うした。彼は常に門弟達に対し、空手道の究極の目的は「和」であるとし、「家庭円満夫婦相和し」を教え諭した。その他に泊手として長嶺将真が、両派の中興の祖である首里手、松村宗棍と泊手松茂良興作の空手を研鑽した結果、両師の名を後世に顕彰する意味も含め、松林流を称えている。

上地流

 上地完文(明治10年5月~昭和23年6月)を始祖とする流派。明治30年(1897年)完文は徴兵忌避して、同郷の数人と中国福州に脱出。間もなく、当地の拳術承・周子和に師事。13年間、パンガイヌーン(半硬軟)拳法を修行。体練型の「三戦(サンチン)」「十三(セーサン)」「三十六(サンセーリュー)」の3つの型と「小手鍛え」の技法を伝授された。3年間は当地で道場開設も許され指導にあたる。

 完文は、明治42年、住み慣れた福州を後にし帰郷した。しばらく故郷の伊豆味村で農業にいそしんでいたが、大正13年47歳の時、単身和歌山県手平町に転出、会社勤めを始める。大正15年、県人らに請われ福州時代以来はじめて自国で道場を再開「パンガイヌーン流空手術研究所」の名称で看板をあげる。

 昭和2年、完文の長息・完英(明治44年6月~平成3年2月)が17歳の時上和、父完文から中国直伝の秘技パンガイヌーン拳法を師事。父子ともに中国拳法の普及にあたる。昭和15年、パンガイヌーン流という呼称を「上地流」と改め、道場名も「上地流空手術研究所」とした。昭和24年、完英は大戦後はじめて、宜野湾村に上地流空手術研究所の看板を掲げ、指導を再開した。昭和32年、上地流空手術研究所を「上地流空手道場」に改めた。このころから上地流は世界的に普及発展へと胎動しはじめた。

 上地完文の中国拳法伝授は、実子完英へ引き継がれ結実、いまや世界の空手界に大きな影響をもっている。

参考文献:空手道・古武道の基本調査報告書(沖縄県教育委員会発行)